一号線を北上せよ

講談社の吊り革広告でツネさまがお勧めしてるのを見て、読みたくなって読んでしまった。

一号線を北上せよ<ヴェトナム街道編> (講談社文庫)

一号線を北上せよ<ヴェトナム街道編> (講談社文庫)

と言っても、別にツネさまファンな訳ではない。
僕もまた、かつて「深夜特急」を夢中で読んだ一人であるからだ。
 
僕の場合、深夜特急を読んで旅に出た訳ではなく、インドやネパールを旅行して帰ってきてから読んだ。
旅行と言っても高々1ヶ月程度、深夜特急の旅に比べるととても短いものだったのだが。
それでも、自分の旅行とダブらせながら一気に読み進んだのを覚えている。
 
旅行、とりわけ言葉の不自由な国を手探りで進む旅行は、様々な事件が次々と降りかかってくる。
常に事件の連続の中にあると言っても良いかもしれない。
日本にいたら一週間分の事件が一日で起こるような感じで、旅行中の時間は人生のなかでも濃密な時間だと感じる。
それが面白くて、また旅行に行きたくなってしまうのだ。
 
しかし、事件があっちからやってくるのは旅行に慣れていない間だけである。
何度も旅行を重ねるうちに、旅慣れてしまって、あまり事件が起こらなくなる。
そうなると、面白いことが起こることを期待して、そういうことが起こりそうな状況を捜し求めて動くようになる。
インド旅行の後、何度か旅行をしたが、その傾向は徐々に高まっていったように思う。
 
この本では今の沢木耕太郎ベトナムに旅行するのだが、
昔のような貧乏旅行でなく、そこそこ高級なホテルに泊まりながら余裕の旅をする。
しかし、やはり、沢木さんも、面白いことが起こりそうな匂いのほうに向かってしまうのだ。
それは、僕にとってはごく自然に理解できることで、そうしない人がむしろ不思議なくらいだ。
 
だが、この本では、沢木さんはパックツアーの日本人集団がツアコンの人とにこやかに会話している姿を見て、こういうのもいいかな、むしろ、こういう旅行のほうがいいのかもな、という気持ちになっている。
旅をあまりに重ねた先にある境地なのだろうか。
僕はまだその境地にないように思う。