ベナレスの記憶

 
タージマハール訪問記からの続き。
(前回はこちら)駆け足タージマハール訪問記 - マルコジみそ
 
ベナレス滞在の数日間は、まるで夢でも見ていたかのように、思い出が断片的だ。
ベナレスは、この世ともあの世ともつかないような、不思議な雰囲気を持つ町だった。
 
夜行列車でベナレスに到着。
ガイドブックに、舟に乗ってガンジス川からベナレスの町に入ることもできる、と書いてあったので、僕もそれにのっとって、舟に乗ることにした。
舟着き場付近へ向かうバスに乗り込んだのはいいが、乗務員は客の呼び込みに夢中で、なかなか出発しようとしない。
しかも、行く先々で停車しては、車体をバンバンと叩いて客引をするので、なかなか目的地に到着しない。
でもまあ、この頃にはインド流のゆったりした時間の流れに馴れてきていたので、のんびり構えてバスに乗っていた。
 
やがて舟着き場に到着。
沈んでしまうのではないかと心配になるようなボロ舟に乗り込み、おじさんの手こぎでガンジス川を進む。
そして、見事、川からベナレスの中心地に入ったのだった。
 
何はともあれ宿をどうしようかと思いながら歩いていると、10才くらいの子供が近付いてきた。
「ガンガービューが良いホテルへ連れてってやるよ」とか言っている。
こりゃ怪しいなあ、と思いつつ、まあ嫌だったらやめればいいと思い、ついて行ってみることにした。
不安になるような細い路地をついていくと、やがて狭い入口のホテルについた。
ホテルに入ると、また別の子供がいて、無邪気にじゃれあい始めた。
その風景が微笑ましくて、これは悪い雰囲気のホテルではないなと思い、ここに泊まることにした。
ちょっと気分が良くなったので、持っていた帽子を子供にあげた。
子供もびっくりした様子だったが、「あんた、いい人だ」と言って喜んでいた。
 
部屋に入ると驚いた。
本当に、窓の外に見事なガンジス川の風景が広がっていたのだ。
こりゃ、いいホテルにありついた。
子供に、感謝感謝。
その夜わかったのだが、ここは日本人も多く泊まる、それなりに名の知れた安宿だったようだ。
 
その後の記憶は、本当に断片的。
話の前後関係が自分でもよくわかっていない。
 
ある日、ガンジス川のほとりを歩いていたときのこと。
人に声をかけられ、なにやら建物の中へ入るよう勧められた。
ちょっと冒険してみるか、と思い、入ってみると、とりあえずガンジス川の眺めがいいところに出た。
あぁ、見物料を取られるのかな、と思って振り返るとぎょっとした。
あちこちに、ボロ切れにくるまった老人がいて、こちらを睨み付けているではないか。
よく聞くと、どうやら薪代をくれ、と言っているようだ。
そう、このベナレスには死期を悟った人がここで死ぬために集まってくるのだが、貧乏な人は火葬してもらうための薪代を払えないので、ガンジス川にそのまま投げ込まれるのだ。
下手すると取り囲まれそうだったので、慌ててその場を逃げ出した。
そして、また川べりに座って、人が焼かれたり、死体をのせた舟が沖に出ていったりするのを、ぼーっと眺めていた。
 
またある日のこと。
ヴィシュワナート寺院前のにぎやかな細い路地を、ブラブラと歩いていた。
本当に、いろんな人が行き交う。
ぎょっとするような大きさの瘤が顔に出来た人も、誰も奇異の目を向けることなく通り過ぎていく。
商店には、派手な色をしたヒンズー教の神々の絵や置物がところ狭しと並べられている。
僕は、少し疲れたので、小さなお茶屋に入ってチャイを注文した。
目の前のテーブルには、華やかなサリーを身につけた女子学生らしき数人が談笑している。
やがて彼女らは席をたって出ていくのだが、その時、一人とふと目があった。
おや、と思ったら、少し間をおいて、「ハロー」と声をかけられた。
思わず「ハロー」と答えたのだが、にっこりと微笑んで去っていった。
その微笑みが、何とも謎めいているというか、神々しいというか、モナリザのような微笑みだったので、しばらくボーっとしてしまった。
ベナレスには、本当に色んな人々が行き交う。
 
ある朝早く。
「××さ〜ん、起きてくださ〜い。」と言いながら部屋の扉を叩く音で目が覚めた。
その前の夜、同じホテルの日本人と、ガンジスの朝日を見に行く約束をしていたのだ。
正直、朝日にあまり興味がなくて、もっと寝ていたかったのだが、約束はしたものだし、彼に連れられて見に行くことにした。
外に出ると、既に朝日が昇りかけていたのだが、その風景を見て思わず溜息が出た。
これは、すごい。
地平線いっぱいに朝日の光が拡がり、ガンジス川を真っ赤に染めている。
その朝日を見ながら、沐浴する人や、祈りを捧げるサドゥや、洗濯する人などがいる。
犬も、牛も、カラスも、人と同じように朝日を眺めている。
僕はその風景を見ながら、何も言うこともなかった。
 
ある日、大通りを歩いていたときのこと。
不意に後ろから「ブー」という音がした。
振り返ると、見知らぬ子供が僕のおしりにカンチョーするしぐさをしている。
手には何らかのオモチャを持っていて、多分これがブーブークッションのような音を出したのだろう。
その子は「してやったり」という顔をしており、周りの人達もニヤニヤしながら通り過ぎていく。
前を歩いていたおじいさんなんかは、「かっかっかっ」と笑っていた。
こんなイタズラをされるとは予想もしていなかったので、どういう顔をすればいいかもわからず、まいったなテヘヘ、という感じでその場はやりすごした。
 
いつの日だったか、とても疲れたので、ホテルのベッドで昼間から横になっていた。
ガンジスの見える窓からは、遠くの雑踏の音と共に、涼しい風が入ってくる。
何だか、これまでの人生が全て夢で、自分はずっとここでこうして過ごしていたかのような気分になった。
今では、あれが夢だったのではないかと思ったりする。
 
実は、この旅行では、ネパールのカトマンズで、大学時代の友人と落ち合うことになっていた。
その友人は、約1週間だけ、ネパールを旅行する予定だったのだ。
僕はベナレスからバスでカトマンズに向かうために、ベナレスでバスのチケットを購入した。
出発当日、指定された待合所に行ってみたら驚いた。
その待合所は、二階の床が半分崩れてなくなった廃墟の中にあったのだ。
一階が丸見えの二階に置かれたソファーに座って待っていたら、確かにバスがやってきた。
良かった、本当に来たよ、とホッとして、バスに乗り込み、ネパールに向けて出発したのであった。
 
このバスの道中が、涙が出そうになるほど苦しいものになることは、この時は予想だにしていなかった。
(つづく)